創価学会の会員のための資料

■過去の投稿等から

題名:創価学会教学要綱
投稿日: 2022/10/10(月)

2022.8.20の聖教新聞に『「創価学会教学要綱」刊行委員会行う』の記事が掲載されていました。

「委員長の原田会長を中心に編集方針などが検討された」とありますので、池田先生の御指南に背いた原田会長(刊行委員会委員長)とその息子の原田教学部長の親子が、新しい学会教学の完成を目指し、出版物として歴史に名を残そうとしているように思えます。

折角の機会なので、「2014年の会則の教義条項改変は大いなる誤りだった」と反省して欲しい所ですが、恐らくそんなことはしないでしょう。
確かに歴史に名を残すのは間違いないでしょうが、それは誉れの名ではなく、「あの時代にはこんな反逆者がいたんだな」との恥の歴史に名を残すことになるでしょう。

2014年当時、「釈迦本仏」を唱える宮田学説はさすがに行き過ぎだったと執行部・教学部でも認識しているはずです。そのため、近年「創価学会仏」構想で軌道修正を図っているようですが、これも説得力がありません。

宮田学説の柱である文献至上主義の名残は新編・御書全集に厳然と記されています。今後もその路線を採る場合、百六箇抄と本因妙抄を「伝承類(日蓮正宗の相伝部)」に残し、大聖人筆とも偽書とも記さず、曖昧な位置に据え置いています。現時点でも、新編・御書全集は中途半端な作りだと思われます。

次に、2023年11月の大誓堂完成10周年で、大規模なキャンペーンを展開したいとの様子が見て取れます。しかし、日昇上人の学会常住御本尊を大御本尊に制定しようとした画策は、池田先生の反対に遭い、見事に頓挫しました。関係者が生存している現在は反省もしないでしょうから、これを祝賀するようなキャンペーンも慎んだ方が良いように思います。

このような中、2013年からの10周年、あるいは、2014年からの10周年を目指し、「創価学会教学要綱」を刊行しようとしていると思われます。

しかし、これまで記したように、今の学会教学は全てにおいて「中途半端」です。
それは、大々的な破壊の後、その傷も癒えないのに、また、十分な検討もできてないのに、体裁だけ整えようとするのですから、それは無謀と言うものです。
こんな状況で「教学要綱」を刊行しようとしても、中途半端なものしかできないように思います。内容次第によっては、内外から攻撃されかねません。
親子で後世に恥を残すような作品は残さないのが得策だと考えます。
「教学要綱」の発刊は、今やる話ではないように思います。

と言っても、会長は執着があるでしょうから、何を言っても強行するのでしょうね。

折角の機会ですから、私からの細やかなアドバイスを記します。
教義改変に疑問を持つ方にも正邪がはっきり理解できるよう、「教学要綱」の論点を考えてみました。
どうか、私をはじめ、多くの会員を納得させるだけの内容を掲載して欲しいと思います。
会長、教学部、刊行委員会の皆様のお役に立てば幸いです。

論点の柱は「池田先生の教学を採るのか/捨てるのか」です。
もっとわかりやすく言えば、「『法華経の智慧』の路線を捨てるか否か」と考えても良いと思います。

これに関して、以下に記してみたいと思います。

■背景と経緯

1990年代の宗門からの離脱を得て、学会は新たな教学運動を開始したと考えます。
先生は、数多くのスピーチを行うと同時に、教学を再興しようと努力されました。
中でも特徴的な出版物として、ここでは「方便品・寿量品講義」「永遠の経典・御書に学ぶ」「法華経の智慧」の三点を挙げておきます。
宗門の形骸化した教学を離れ、大聖人の振舞の中に仏(御本仏)を見つめ直し、縦横無尽に科学、医学、心理学、社会学、政治、文化等の各分野に仏法が展開される様を論じていると考えます。会員そのものが地涌の菩薩であり、菩薩そのものが仏であるとの「菩薩仏」の概念は画期的だったと考えます。
一方で、当時を覚えている方は思い出して下さい。大白蓮華の金屏風の前の法主の写真がありました。写真に続く、無味乾燥な長い講義に決別できたのは大いなる喜びだったのではないでしょうか。また、先の三種の本にまとめられた本来の仏法に触れ、弘教の喜びを呼び覚ましたことでしょう。

当時も、先生が再興されようとされた学会教学は、「日蓮本仏」「文底仏法」「人法一箇」に基づいていました。これは、宗門の教義を払拭するのではなく、宗門の教義を一重深く掘り下げ、戸田先生の獄中の悟達に迫ろうとしたものではないかと私は考えます。

更に、私は数々の先生の著作を読む中で、ある意味、「仏」とは「人間性」であると考えています。
「人間性」を欠く人間が「仏」であるはずはなく、その集団が生み出す行為は社会を不幸にするでしょう。昨今の無慈悲な学会幹部、破廉恥な公明党を見ていて思うのは、いずれも「人間性」の欠如のなれの果てのように思います。

先生の路線を踏襲していれは、当面の学会教学は盤石だったはずですが、2013年ごろから顕在化した嫉妬に基づく教学破壊が2014年の教義改変の形で歴史に残ることになりました。つまり、2014年の教義改変が、池田先生の御指南を否定した流れであり、人間性を失わせる結果となって不祥事が続発していると考えます。

更に、今後の学会教学の趨勢を決めるのは、先生が再興されようとした教学を採るか、それを否定する流れを踏襲するかによると考えます。

■文底と人法一箇

詳細は省きますが、現執行部の教学の特徴である「文底仏法の否定」「人法一箇の否定」は、「文献至上主義」を源流としており、行きつくところは「他から批判されない」だけの「薄っぺらな学問」です。
多くの会員が気付いているように、現在の学会教学は、「法華経の智慧」等とは全く異質の印象を受けます。薄っぺらな教学では、恐らく、「何故、御本尊に祈ると仏界が湧現するのか?」「何故、人が御本尊に祈ると仏になるのか?」を説明できる人はいないでしょう。なぜなら、それは文底仏法でなければ読み解けないからだと考えます。

それは、大聖人が生命をかけて御図顕しようとされた「御本尊とは何か?」「何故、法を求めると、人は仏になるのか?」「一体、仏とは何か?」を説明できる人が最高幹部や教学部にはいないからだと考えます。故に、仏に非ざる振舞をしたり、人が不幸になっても顧みることのない幹部・会員が増えていくのは当然だと考えます。

「文底仏法」「人法一箇」「御本尊」「仏」等の概念は、簡単に得入できるものではないと思います。
自身が、例えば、先生の著作を読み、思索し、御本尊に祈り、実際に人を救済しながら、探求していく中にしか得ることは難しいでしょう。
しかし、現在の学会では、探求する姿勢すら見えません。なぜなら、既に「創価学会仏として完成されて」おり、組織・団体に属するだけで、「既に仏である」と多くの不思議な会員は考えているからです。これでは、まるで貴族仏教であり、小乗教の集団のようです。
また、大御本尊に関しては、池田先生は原田会長に対して「大御本尊を否定するものではないよな」と指導されていたにも拘わらず、2014年には会則の教義条項の改変で否定してしまいました。
これらのことに関しては、別に資料を公開していますので、興味のある方はそちらをご覧下さい。

■創価学会仏

今回、宮田学説に基づく、日蓮本仏を否定した「釈迦本仏」路線は明確に否定しておいた方がよいと思います。この路線は誤りだったと。
2014年の教義改変に当たり、教学部アドバイザーとして迎えた宮田幸一氏ですが、暫くして学会本部も「この『釈迦本仏』路線はさすがに行き過ぎだ」と考えたのだろうと想像します。
次に、手頃な「仏」として編み出したのが、「創価学会仏」です。これは軌道修正だと考えます。
しかし、この「『創価学会仏』路線」は教義としては根拠に乏しいと考えます。
これは、戸田先生の「将来…呼ばれることもあろう」との発言を基に活用されていますが、元々「今ではない未来」の話ですし、断定ではなく「そうなるかもしれない」という仮定の話なので、現在の創価学会が既に「創価学会仏である」との用法は無理があると考えます。
そもそも、「仏」や「御本尊」に関する概念が、現在の学会教学では薄弱です。文底を否定し、「法華経の智慧」を遠ざけての議論は空しく滑ります。「仏」や「御本尊」が分からない執行部や教学部が如何に「教学要綱」を記しても説得力はないでしょう。おまけに、創価学会仏路線を強調すれば、恥の上塗りです。
あたかも「創価学会」が、今のままで、偉大な「創価学会仏」であるかのような内容は間違っても入れるべきではありません。
教学要綱で下手に触れると宗教学上の笑いものになりかねないような気がします。

近い将来、発行されるであろう「教学要綱」は、2013年の大誓堂、2014年の教義改変を総括し、本流の教学に戻せる絶好の機会です。是非是非、この機会を逃さず、人が幸福になる創価学会、世界を平和にする創価学会に戻しておいた方が良いと思います。 切に、お願いしたいと思います。

■明示すべき項目

最後に、論点を整理していきたいと思います。
「文底仏法」も「人法一箇」も「法華経の智慧」では一貫して論じられたテーマです。
その後の学会教義でも用いられてきていたと考えます。
なぜ2014年の教義改変以降では用いらなくなったのでしょうか?
池田先生の御指南を否定し、更に、自説が、先生の解釈を超えているとの自負でもあるのでしょうか?

どうしても、先生の御指南を否定するなら、その根拠を示して下さい。

三つの論点を記します。可能であれば、「要綱」には、以下の項目を明確にして下さい。

(a) 文底仏法は用いるか否か
(b) 人法一箇を用いるか否か
(c) 日寛教学を用いるか否か

(a) 「文底仏法」

これに関しては、南無妙法蓮華経自体が、文底だと私は考えます。
文献至上主義に拘れば、南無妙法蓮華経を否定しかねないと思います。
海外布教に有利な釈迦本仏路線であれば、大聖人を否定し、南無妙法蓮華経もなくても大丈夫なのかもしれませんが、日蓮本仏や題目を主張するなら、文底仏法を探求し続けるべきです。
「文献至上主義」と「文底仏法」。この二つのうち、いずれの路線を採用するのでしょうか?

(b) 「人法一箇」
先生がご健在だった2010年頃までは、一貫して「人法一箇」だったと考えますが、近年では、さっぱり聞かなくなりました。
新聞や大白蓮華でも、「人法一箇の御本尊」ではなく、「南無妙法蓮華経の御本尊」との表現が主流です。
もはや、現在では「人法一箇の御本尊」ではないのでしょうか?
また、「人法一箇」でないなら、なぜ南無妙法蓮華経の法を唱えると、人間は仏になるのでしょうか?
オカルトと言われないためにもご説明をお願いしたいと思います。

(c) 日寛教学
2015年1月末の聖教新聞掲載「会則の教義条項改正に関する解説」にはこうありました。「日寛上人の教学には、…普遍性のある部分と、…時代的な制約のある部分があるので、今後はこの両者を立て分けていく必要がある。…世界宗教にふさわしい教義の確立という立場から見直しを行っていく」
つまり、2015年初頭には「日寛教学の見直し」を教学部は宣言されていましたが、その後、7年以上見直し内容の発表はありませんでした。
一体、どうなっているのでしょうか?

また、文底仏法を宣揚した日寛上人の処遇はどうなっているのでしょう。戸田先生も池田先生も日寛上人を用いておられました。 教学部は、日寛教学の何を用い、何を用いないのか。是非、見直し内容の公表をお願いします。

更に言えば、そのように日寛上人をある意味で否定するような発言をしながら、日寛上人書写の御本尊を授与するのは失礼でもあります。
二律背反の状態です。
「それでもいいんだ」と主張するなら、その根拠を示すべきです。それをしないのは仏法者として、日寛上人に失礼であるだけでなく、一宗教団体を統率する上での問題解決能力を疑われます。

「創価学会教学要綱」では、全ての学会員の全ての疑問を晴らすような明快な説明をお願いしたいと思います。

先にも記しましたが、私は2014年の教義改変に関する資料を公開しています。
教義改変2014の適否に関しては、私は不適だとの判断をしています。私の主張の詳細は以下の公開資料を参照下さい。

「大聖人観と御本尊観」要約版
https://drive.google.com/open?id=1PnHGLpWEi_IBaaHwdhPqqCITXy7Rob4O

「大聖人観と御本尊観」第六章_考察-詳細版_R01_00.pdf
https://drive.google.com/open?id=15EajB0LWNQPXE63xuoHEiYfw2RQNqQb7

「大聖人観と御本尊観」関連資料のインデックスマップ
https://drive.google.com/open?id=19D7MJ2ap0964hakHkdKjysuYVCOpb75d

最後に、もし私の認識・解釈に過ちがあるなら、再考を促すような「創価学会教学要綱」を刊行して頂ければ有難いです。 もしその「教学要綱」に一読の価値があるようなら、私も勉強させて頂きたいと思います。


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