創価学会の会員のための資料

■過去の投稿等から

題名:財務
投稿日: 2022/10/23(日)

1.創価学会の財務

今年もまた財務の季節がやってきた

創価学会の財務は、広布基金とも呼ばれ、会員の献金である。読者は既にご存じであろうが、ここで一度、確認・整理しておく。
この財務に参加する会員は広布部員と呼ばれる。この献金は会員の自由意志を原則としていて、広布部員になるためには申込書に自署することになっている。意思確認の証拠の意味もあるのだろう。

納金は一口1万円を基本とし、何口申し込んでも良いことになっている。更に、この納金は銀行・郵便振込で行われているはずである。
広布部員の申込をした者に対し、学会は振込用紙を準備し、原則本人が振り込みを行う。
① 広布部員の申込書の配布回収、② 振込用紙の配布、③ 振込の確認、④ 領収証の配布と、この時期、現場の活動家は何度も広布部員宅を訪問しているだろう。
地区・支部の推進・責任者はまじめに取り組んでいるが、これらの負担は決して軽くはない。
しかも、学会職員がやるのではない。一般の会員が行う活動である。しかも無償奉仕である。

「どこかの教団と違い、学会の財務に問題はない」と、学会本部も主張するだろうし、現場幹部もそう言うだろう。

果たしてそうだろうか?

私は「財務に問題があるか否か」を問われれば、「現状の財務には問題がある」と答える。丁寧に言えば、「法律上は問題ないかもしれないが、道義的、あるいは信仰者としての対応に問題がある」と答えたい。もし私と同じく「現行のやり方に問題がある」と心ある会員が思うなら、解決に向け動くべきである。


2.財務の実態

私の「財務に問題あり」との主張に賛同できない人もいるだろう。それも自由である。しかし、私の主張を少しだけ説明しておきたい。考えを整理してもらうために以下に三つの事例を記す。

事例1.財務しない選択肢 ~収奪教団と言われないために~

財務は毎年行われる。選挙があろうが、災害に見舞われようが、「今年は止めよう」と言い出す幹部はいない。
人ごとに経済状態も違う。人生に浮き沈みもある。「やる/やらない」は、会員の自由意志に任せればよい。活動家は「強制している訳ではない」と主張するだろうが、「やらなくてもいいんだよ」との言葉は聞かない。生活が苦しくても「やるのが当然」と思っている幹部は多い。

事実、コロナ禍で大変な状況にある人達がいる。その数は多い。しかし、「財務はやらなくてもいいんだよ」と言った幹部はほとんどいない。一割どころか、1%もいないだろう。組織に逆らって、「やらなくても大丈夫だ」と言った人は現実にいたが、極めて僅かだった。しかも、悪口を言われていた。
学会員でも「収入激減」「会社が倒産」「離職して、再就職に挑戦中」「家計も大変」「介護の負担が大きい」「教育の負担が重い」という方もいる。
それでも、「財務は当然」なのだろうか?

本当にまともな幹部は、会員の仕事の状況、生活状況までよく把握している。それが幹部だからだ。様々な悩みにも相談に乗り、指導もしているから、限界を超えての財務を強要することはない。
「今年は難しければ、来年やればよい(何年かかけて境涯革命に挑戦しようよ)」
「年金受給者なんだから、無理することはない」
と言うのがまともな信仰者だろう。

何十年も前から、学会未来部の進学率の低さは問題だった。当時の高校生と懇談する中で、進学に触れると、家計を気にしているメンバーは実に多かった。こちらが受験を啓蒙しようとする前に、既に進学を諦めていた。

何故、子供達の将来に配慮した指導をしないのか? 某教団ばかりが、二世・三世問題を抱えている訳ではない。

子供の将来、親や自分達の老後のためには、当然、貯えが必要である。そのために、財務の金額を減らしたり、場合によっては、財務の中止も已むを得ないと考える。

「財務は大善」「財務をすれば守られる」との迷言が横行する。
しかし、その通り実践しても、老後の生活は苦しく、信心しない子供達は援助もしてくれない人達も多い。親の行動に呆れた子供達は、学会に不審を抱いたまま大人になり、やがてその親が介護が必要になっても、それを自業自得と考え、親を助けるのに躊躇する。一方で、その原因を作り、責任を負うべき幹部は、「プライバシー」を理由に冷たい態度をとる。これでは厳しい老後が待っているのは当然だ。子供や老後の現実を見て、学会の財務に問題がないと本当に言えるのだろうか?

また、「境涯革命のために財務に挑戦したい」と言う会員がいるのも事実である。敢えて挑戦すると決めるなら、それも良かろう。しかし、そういう人が全てではない。「しなくてもいいんだよ」と言った上で、本人が「やる/やらない」を祈って決めればよい。先ず、「やらなくてよい」との前提を提示すべきである。
そして、問題が起きると、幹部は「自分で『やる』と言っていたのだから、『自己責任だ』」と言い逃れをする。過失を認め、反省する幹部はまずいない。様々な状況を把握しなかった過失に触れず、自分の責任でないと言い逃れをするなら、幹部でいてもらう必要はない。
「財務は当然」との感覚は異常である。「やらなくてよい」とは誰も言い出さない。「財務を勧める幹部」も「財務する会員」も(ある意味で)「洗脳」状態にある。

幹部ならば、様々な選択肢を提示するべきであろう。
一番最初に、「財務をしない選択肢もある」と明言すべきである。
会員が暗黙の圧力を感じているなら、解放してあげるべきであろう。

財務は会員の義務などではない。
財務しなくても創価学会員である。財務出来なくても学会員である。学会員でいられる。
そうあるべきではないだろうか。


事例2.財務は浄財

会員の多くは経済的にも大変な中、「広宣流布のために、お金を使ってもらおう」と財務を行う。いわば、財務は会員の「真心」である。財務は「浄財」である。
「財務をすれば守られる」などと功徳目当てに、財務する会員も確かにいるが、それは心根に問題がある。
デタラメを封じ、まともな信仰観を持ってもらうことから是正すべきだろう。

一方で、財務する会員の真心を、使う側はどれほど理解しているだろうか?

(1) 職員

先ず、財務の内容は公開されない。財務の総額は勿論、使途も全く分からない。
「学会本部が、本部職員が正しく使ってくれるはずだ」
「職員が不正をすれば、その職員が罰を受けるのであって、財務した人の功徳は間違いない」
それは本当だろうか?

職員の生活ぶりは、優雅である。少なくとも大勢の会員より遥かに恵まれている。
職員のほとんどは戸建てかマンションの所有者であり、定年退職よりはるか前に、ローン完済を自慢していた職員も事実いた。
昔は、職員は中古の軽自動車で質素観を醸し出していたのに、今の若手の職員は、高価なスマホや車を所有していても、憚ることもない。
「副会長なのに…」「最高幹部なのに…」、「中古の軽なんだ」と感心していた人も多かった。しかし、実際は、年収ウン千万だった。確かに職員幹部の資産、つまり、マンションや持ち家まで確認する会員は多くない。職員の収入は分かりようがない。騙されても仕方ないかもしれない。

私は、某教団の職員を知っている。家族で極めて慎ましい暮らしぶりだ。勿論、彼らの教団でも献金はあるだろう。その中から給与をもらっているのだから、質素な生活は当然なのだろう。彼らは、見ていても清々しい。学会職員と他教団の職員では雲泥の差である。

池田先生が会長だった時代、つまり、昭和54年までの時代、職員は間違いなく薄給だった。借家で、一生懸命に子育てしていた。私も、彼の子供達と一緒に食事をさせてもらったこともある。間違いなく、質素な暮らしだった。しかし広布への情熱があった。献身があった。
池田会長時代は、職員になることは、御奉公だった。

それが、池田先生を会長から辞任させた後、職員の待遇は大幅に改善された。更に、宗門と決別してからは、寺院を建立寄進する必要もない。

今の時代、職員が生活に困ることはない。今、そんな職員を見たことはない。自分の手で金を稼ぐわけでもなく、信者の献金で安定した一生が送れる。安定した職業である。その女房も一生安泰だ。ワークミセスと異なり、学会活動に専念できるだろう。幹部の道に驀進である。
本部職員だけではない。外郭職員も同類である。夫婦で引退後には海外旅行、新聞配達はしないのにスポーツジム通い等々。女性最高幹部達の派手なスーツに眉を顰める人もいる。まるで貴族並みの生活である。全ての職員が貴族並みの生活ではないだろうが、最高幹部の収入は、大企業の重役の比ではない。

たとえ、中古の軽自動車に乗っている職員がいようとも、決して騙されてはいけない。

(2) 会館建設と維持

次に、会館を例に考えてみたい。

全国に学会の会館は約1200あると言う。全国に200万の活動家がいると仮定して、平均して、会館当たり約1700人程度となる。地域により、それぞれの事情・差異はあるだろうが、全国1200会館は妥当な数字だろう。都市化・過疎化で必要とされる会館の数も規模も地域差はあるだろうが、その会館数を維持する前提で考えてみる。
1200も会館があれば、老朽化や災害に備え、立て直しも必要だろう。耐用年数40年とすれば、最低でも年間約30会館が建築されることになる。

このように、会館の新規建設、再建築も勿論必要だろうし、中心会館には職員も必要になる。学会活動が広宣流布の活動である以上、資金も必要だろう。であるならば、世間にこの数字を公開すればよい。「不正はない」と実状を公開すれば、内外の納得を得られるはずだ。

ここで、ある方面からの情報を紹介する。会館建設に関して、学会は法外な金額を払っていると聞く。確かに、新築されるどの会館も立派であり、通常よりも安全性は高いと見える。ゼネコン(スーパーゼネコン)は、会館を課税されない宗教施設とみて、法外な価格を提示してくる。ゼネコンにとって、学会は上客だ。この実態はどうなのだろうか。

学会本部のある部署は、業者を引き連れ、地方を訪問する。地方の会館建設なのだから、現地をよく知る地方に任せればよいはずだ。しかし、信濃町が、地方の会館・施設建設に口を挟む。ゼネコンの上に、スーパーゼネコンを無理やりかませ、建築単価を上増しさせることもある。会館建設だけではない、付属する設備費用も莫大だ。
しかも、一般的な相場と比較して、2割増しどころではない…(詳細は割愛する)。
また、「強く」「善く」「賢く」するはずの宗教なのに、世間知らずの幹部が世間相場を知らないこともあろう。無知が費用を誤魔化される一因であるとも言える。
更に記す。地方幹部の中には、「会員からの浄財である」ことを理由に不当な金額の是正を求める声もあると聞く。良心を残した幹部がいることの証左である。しかし、選挙対策、新聞拡張を理由に、低価格での建設は実現されることはない。

昨年(2021年)に報道された、大阪の「太閤園」の用地購入をご存じ方も多いであろう。跡地は講堂建設と聞いているが、取得金額は約390億円と報道された。3億9千万円ではない、39億円でもない。390億円である。本当にそのような土地が必要なのだろうか。

会員の「浄財」だと思えば、そんな使い方はできない。

更に更に記す。
上増しされた建設費は、全てゼネコンの懐を潤しただけなのだろうか? 職員への還流疑惑である。東京オリンピックの疑惑は学会には無縁と言い切れるのだろうか。公明議員の体たらくを見れば、学会職員に疑いを持つのは自然なことのように思える。つまり「公明党だけがおかしくて」「学会本部は清廉潔白だ」などとは信じがたい。大勢の会員が今まで「公明党は素晴らしい」と信じてきたが、一部議員には完全に裏切られたはずである。今度は学会本部を考えてみたい。今でも、学会本部だけは素晴らしいと言えるのだろうか。会員は目を覚ますべきではないか。

視点を変えれば、党の議員や職員が「信濃町の北(学会本部)はあんなにおいしいのに…」、「信濃町の南(公明党)だけ、品行方正でいろ…だなんてムリ」と思ったとしても不思議ではない。「北がやってるなら、南だって…」と思ったとしたら、信濃町の北も南も同類になる。
否、「南だけがおかしくて、北だけは素晴らしい」などと、私は考えてはいない。

(3) 使途の検証

広宣流布が壮大な事業である以上、資金は必要だ。たとえ宗教団体が優遇されているとしても金は必要だ。だから財務や献金が必要だとの主張には一理ある。
問題は、「何に」「いくら」必要か、一般会員には分からない。分からないのに集金されていることが問題である。

「一回の財務で、学会本部にはいくら入るのか?」
「その浄財は、一体、何に使われるのか?」

それが分かれば、自分の財務を考え直すかもしれない。是非、財務の収支を公開すべきである。

「不正がない」と証明するには、財務諸表や財産を公開するしかない。
「不正はない」と主張したいなら、学会本部に公開を進言すべきである。
地方の会館建設も、然るべき人達がチームを作り、精査・吟味すべきである。

池田先生は戸田先生の指導を紹介してこう指導された。

「人事と金銭は、絶対に正確にして、問題を起こしてはならない」(2006.06.04、2007.12.11)

その通りである。
疑惑が報告されているのに、また、「不正がない」と証明されない以上、私が「学会に不正がない」と言うことはない。

よって、「不正の可能性がある」と言う前提で主張したい。確かに現状は「可能性の段階」である。事実を検証すべきである。
また、「不正はない」と信じたいなら、財務の使途を明確にすべきである。そして、もし不正があるなら、
今から、そして将来の世代で、必ずやその不正を暴くべきである。
悪を糾弾しない者は、やがて悪に飲み込まれてしまう。そして、自分自身が悪となる。

不正があるなら追求すべきである。何故なら、財務は純真な無名の庶民が捧げた浄財であるからだ。正しく使われるよう守る責任があると私は考える。


事例3.心の財(三種の財宝)

この時期、幹部は「真心の財務」を強調する。しかし、真心がどのように使われているか、誰も知らない。
財務は会員から預かった金であるとの認識があれば、無駄をなくし、広宣流布に役立てたいと思うだろう。もし、そう思わないなら、会員は預けるべきではない。

御聖訓に「穴賢・穴賢、蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし(御書1173頁)」とある。
よく聞く御文である。しかし、大聖人の仰る意味を正しく理解しているだろうか。

心の財、身の財、蔵の財の三種を比べた時、第一は心の財と大聖人は仰せである。次に身の財とは健康であり、広布のために行動することと拝される。最後に、財産、金銭であると、三種の財を比較されている。もう一度記す。何より、第一なのは心の財である。

「今年の財務は難しくとも」「友のために祈ろう」「励まそう」「共に寄り添ってあげよう」との心根を大聖人は讃嘆されるであろうし、六根清浄の功徳はいや増して輝くであろう。寄付金額の多寡、寄付の有無ではなく、心根とそこから発する行動こそが、大切であり、心の財を積んでいくように仰せなのではないか。

それが、「財務こそ大善」「財務にまさる功徳はない」との主張だけを声高に叫ぶようなら、「収奪教団」と言われても仕方がない。
プライバシーを持ち出して会員の生活状況には関心を示さないのに、金の要求だけをするような幹部を信用してはならない。幹部の心根の問題である。

そもそも、大聖人は「心の財を積んでいきなさい」と仰せである。蔵の財ではない。
それなのに、「経済的に大変でもやるべきだ」「財産に執着するのではなく」「未練を断ち切って、財務しなさい」「それが心の財を積むことになる」と教えている訳ではない。
つまり、同じ御文でも、おかしな幹部は大聖人と真逆の指導をしている。これでは、どこかの教団と同じである。これを許せは、学会もその教団と同じになる。
大勢の会員が「学会も某教団と同じ臭いがする」と感じているのは、正にこの感覚なのではなかろうか。

「人に献金させる」ことが、その人に「心の財を積ませる」ことになるのだろうか。幹部の姿勢を問いたい。一言で言えば、私は違うと考える。
信仰者として、目の前の人のことを思いやり、その人の未来を幸福にすることが大切だのだと考える。
また、未来の人達のために「戦争のない、平和な世界を本気で願う」ことが、「心の財」なのではないだろうか。
財務をすれば過ちが許される訳ではない。間違いは間違いである。自分が正すしかない。財務は免罪符ではない。
「蔵の財」を献上して、「心の財」を壊しているなら、待っているのは自他共の不幸である。

人の「心の財」を破壊しておいて、「蔵の財」だけを要求するような輩は、大聖人の弟子ではない。
会員の状況に配慮し、会員の将来に責任を持ち、会員が功徳を受けられるよう丁寧に指導すべきである。そこで、仮に「今年は財務はやらない方がいいね」との判断となろうとも、窮屈な思いをさせず、のびのびと信心を続けられる。
私は、そんな学会であるべきだと考える。

以上、学会の実態、財務の実態を踏まえ、私の認識を少しだけ記した。
読者の皆さんも、既に同様の疑問を感じていたかもしれない。
否、もっと酷い実態を目にしてきたかもしれない。
財務の問題である。心の中にしまってきたものもあるかもしれない。全てを語ることはできなくとも、これからは少しでもおかしなことを正していくべきではないだろうか。


3.財務の在り方に関する提案

財務に関しては、長期的には抜本的な改革が必要かもしれない。
しかし、当面の、暫定的、現実的な改革から取り組んではどうかと考え、以下に四点の提案を記したい。

(a) 本人自筆の広布部員申込書
(b) 学会本部の会計内容の公開
(c) 幹部の再教育
(d) 寄付方式

(a) 本人自筆の広布部員申込書
現在は、活動家本人の申込書以外に、家族に黙って勝手に広布部員を申し込んでいる会員が多い。
つまり、未活動の御主人や子供に代わり、了承も得ないで、勝手に申込書を記入し、金銭も支払っている。このような人が各地区に一定数いるはずだ。
これは「財務をすれば守られる」との妄言を信じた結果かもしれない。いわば、オカルト信仰である。
ある人曰く、「これでは『身代り地蔵」ならぬ、『身代り財務』だな」と。

このような行為は、家族の不審を招き、一家和楽を遠ざける。
今、某教団が社会的に問題になっている。「学会は、額がそこまで酷くないから、大丈夫だ」などと言ってる場合ではない。
金額の多寡が問題なのではない。家族を苦しめて、家族を裏切って、不誠実に献金するのが問題なのである。
「今年は家族の了承が得られない」なら、了解が得られるまで待てばよい。何年掛かっても、理解してもらえるように、それは学会を理解してもらえるように努力すればよい。学会を変える必要があるならすればよい。
それが「一家和楽」につながる。それをしないで、「金を払えば守られる」だなんて、それは「仏法」ではない。そんなことを教える幹部は「仏」ではない。魔物である。

「身代り財務」はやめるべきだ。

(b) 学会本部の会計内容の公開
自主的に学会の収支を公開すべきである。
社会問題となれば、国民からの国税への圧力も高まることになろう。自主的に開示するか、圧力に負けて、国税に踏み込まれるか。私は、自主的な開示を望む。

やましいことがなければ、開示に支障はないはずだ。今は「説明責任」の時代である。正当な理由もなく、非公開なんて、却って疑われる。
先ず、公開しても、会員の側は何も困らない。

「会員数、会館数、職員数、様々な活動を、この収入を得て、このように使っている。不正はない。やましいことは何もない」と教えて欲しい。
外部の方にも、そう、説明させてもらいたい。疑いを持たれているのに、ただ「信じろと言われても」、それはできない。また、外部の全ての人に受け入れてもらうのは不可能である。学会側も努力し、説明すべきである。

私個人としては、人件費、会館建設費には興味がある。
ゆくゆくは、大阪の「(390億円で取得と報じられた)太閤園」も分かるような資料の公開も望みたい。
この用地取得は、本当に会員のために必要だったのか。先ずは、諸表の公開から始めてもらいたい。詳細の追求はそれからだ。

使途が不適切なら、直すべきである。
隠す必要はない。内輪の論理で、隠してはならない。
この時代に、非公開などナンセンスだ。

国税に要求されるより前に、本部会計:収支計算書、貸借対照表、財産目録を公開するのが望ましい。
それを参考に、会員は「財務するか否か」「財務の金額」を各自が判断することもできるだろう。今は判断材料がない。

(c) 幹部の再教育
幹部は、会員に「財務しなくてよい」ことを明言すべきである。
会員が大変な状況なのに、配慮を欠いて、半ば強制的に献金させるなら問題だ。
財務の有無よりも、仕事や生活状況にも配慮し、指導すべきである。
そういう幹部を育成し、幹部として組織を任せるべきである。
人を正しく指導できず、却って、不幸に陥れるなら、幹部であってもらう必要はない。辞めてもらうべきである。

幹部には世間一般の最低限のコンプライアンス研修を受けさせ、常識的な対応ができるようにすべきである。
そもそも、幹部に任命された途端、突然、人格が完成され、人間性が備わる訳ではない。幹部だからこそ、教育を受けさせるべきである。役職に見合う能力を身に着けさせるべきである。そのために研修を義務付けるべきである。
能力も人格も備えてない、備える気もない人間は、幹部である資格はない。

宗教団体だからといって、許されるわけではない最低限のことは教えるべきである。人を不幸に陥れるおかしなことは、禁止させるべきである。

また、幹部は、何故、財務が必要か説明するべきである。幹部は会員から要求があれば、金額も使途も説明できなければならない。自分も必要性が分からないのに、人に金を出すよう要求するのは危険な団体である。

(d) 寄付方式
広布部員の記念品も数年に一度になったと聞く。財務も数年に一度で良いのではないだろうか。

広布部員全員に振込用紙を準備する現行方式では負担が大きい。軽減するには「寄付方式」も一案である。

つまり、どうしてもしたい人だけが、地域毎に開設した銀行口座・郵便口座に振り込めばよい。
現状のように、振込口座番号を印刷した振込用紙を配布し、納金してもらう必要が本当にあるのだろうか。
詐欺対策などの安全・無事故を理由に挙げ、現行(振込用紙)方式に固執するだろうが、「取り損ねないシステム」である。そのために、全国で数万から数十万の一般会員を無償で従事させる必要はない。総計すれば膨大な時間になる。会員を無償で奉仕させるようなことではない。

振込用紙による納金以外に、特定の日に会館で行われる「広布基金」受付で対応することもできる。

そもそも、安全・確実にしたいというなら、問題なく納金できる人にだけ財務してもらえばよい筈である。
また、高齢者でも、家族に協力してもらえる人にだけ、頼めばよい。危ないと思う人(認知能力に問題がある人など)からも無理に集めようとするから問題になる。「家族の協力も無理」「高齢で大変」という方なら、無理して財務する必要はない。今のやり方は「一円(一万円)でも多く…」という印象につながりかねない。

次に、中心会館の事務負担を考えてみたい。
広布部員の把握、更新、番号付け、広布部員証・振込用紙の印刷・配布。入金後には、入金確認、領収証の発行、等々。職員の作業もさることながら、様々な印刷用紙も無駄?である。SDGsに反している。
寄付方式で強制ではなくなり、献金者数が少なくなれば、口座振込しても職員は対応できるだろう。
更に、寄付なのだから、領収証の準備・配布も不要にすればよい。どうしても領収証が必要だと言うなら、事前に登録させればよい。そういう寄付形態は一般的だ。
何より、地区・支部の負担も大幅に軽減される。

やりたい人だけが振込む寄付方式では、財務しなかった人を組織が把握できない。やりたくなければ「組織にバレない」ので、会員は監視されることがない。
忘れても責められない。やらなくても構わない。強制ではないのだから…。

「財務は寄付」にすればよい(党費も民音も、寄付方式でやってくれとの要望は、既に多くの地域で起きている)。

以上、提案を記した。「財務は大善」「財務は当然」という「洗脳」から脱却した方がよい。
そしておかしいと思うことは、様々な人が検討し、改革が進むことを期待したい。


最後に

財務は今年もやってくる。
しかし、もう幹部の言う「真心の財務」は聞き飽きた。それを語る幹部に「真心」は感じられないからだ。
職員は優雅な暮らし。高額な建設用地の取得。財務の収支も誰も分からない。幹部に聞いても答えられない。献金に動く会員は無償奉仕。その数は万を超える。
そんな宗教団体が健全と言えるのか?
会員自らが声を上げて、改革する必要があると私は考える。
社会問題になる前に、自己改革すべきではないのか?

財務が今年もやってきた。
多くの地域では、広布部員の申込も、もう終わったことだろう。
今年も懸念が残る財務の推進であろう。
しかし、今からでもこれ位は言える筈だ。

「財務はやってもいいが、やらなくても問題はない」
「心の財が大切なんだよ」「心の財こそが大切なんだよ」
「決して無理をしてはいけない」


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