創価学会の会員のための資料
■過去の投稿等から
題名:カルトからの脱却 ~創価学会はカルト教団なのか?~
投稿日: 2022/10/02(日)
カルト教団はなぜ問題なのか?
信仰を利用して反社会的な行為を行うとの理由だと思われる。
では、反社会的な行為とは何か?
傷害・殺人、強盗、詐欺等の犯罪行為の他、社会の習慣や常識に反する行為、道徳に背き、秩序を乱す行為であろう。
また、カルトの特徴として、洗脳、詐欺、支配と服従、奴隷的労働(無償奉仕)、等の要素が考えられる。
つまり、法律上、道徳上問題があり、これらの特徴が顕著である場合、その団体はカルトと考えられる。
ここで、問うてみたい。
現在、旧・統一教会の問題がマスコミを賑わしているが、創価学会は、カルト教団ではないと言えるのか否か。
旧・統一教会と創価学会は何が違うのか?
程度の差はあれ、やっていることはほとんど同じと考えている人は多い。
実は、学会内でもそう感じている人は多い。
一方、「学会と旧・統一教会は全く違う」「創価学会で良かった」と口にする人がいるのも事実である。
そう思いたい気持ちは理解する。しかし、もし学会に問題があれば、反省し、直していくべきだと考える。
私は創価学会をカルト扱いしたくはないし、もしカルトと思われているなら、原因を正すべきだと考えている。
今回、幾つかの事例・観点を取り上げて、学会内の問題を考えてみたい。
1)聖教新聞掲載の虚偽情報を利用した洗脳(会員操作)
聖教新聞紙上に時折掲載される「四季の励まし」は、池田先生が現在執筆されている訳ではない。
「四季の励まし」は池田先生の、過去の文章の切り貼りである。私の知る限り、全ての掲載は切り貼りである。
しかし、現場幹部は、「四季の励まし」やメッセージは先生ご健在・ご活躍の証拠だと言う。
同時に、先生ご健在だからこそ、学会の上からの指示は、先生の意向だと主張する。こうやって、会員を活動に駆り立てる。
聖教新聞の報道・掲載が基となって虚偽を拡散し、会員を選挙支援に駆り立てるなど、人心を操作している。
それ以外にも、以下の二点が虚偽に基づく強行として検証されている。
・2014年の会則の教義条項の改変(池田先生の御指南に背いたものである).
・2015年の集団的自衛権行使の限定的容認(過去の先生の主張には矛盾する).
池田先生が書いてないものを先生が書いたと偽る。
先生のご健在を前提に、先生の意向と違うことを先生の名前を騙って強行する。
先生を利用して会員におかしなことを強要する。
あまりにおかしなことなので、「何をやっているんだ!」「先生の指導と違うではないか!」(2006.10.25、2008.03.05の先生の指導他)と指導通りに行動すると、批判され、迫害される。
私には、そんな学会員は、おかしな幹部達に「洗脳」されているとしか思えない。
聖教新聞は、先生が書いてないものを、さも現在先生が書いたように切り貼り・創作する。
2010年5月を最後に先生は公式な場には出られなくなった。
しかし、「元気にしておりますよ。執筆活動などに専念しています」と会長は発言した(2016.09.22朝日新聞)。そして、不思議な現場幹部は今もそう主張する。
先生が書いているか否かは検証が必要である。現時点でも、そして、将来も徹底的な検証が必要である。
もし、宗教団体が、出版事業として、事実と異なる虚偽情報を活字にして出版し、金銭を得たなら宗教法人として問題である。
会員を騙して金を得たなら、それは「詐欺」といわれても仕方ない。
更に、会員の学びを妨害し、思考を停止させ、組織と幹部が絶対と信じさせ、嘘で会員を操るなら、それは「洗脳」である。
政党支援と集金活動しかしないなら、その団体は宗教団体とは言えない。人を救わないなら、否、人を苦しめるなら、もはや宗教ではない。
2)虚偽情報に基づいた活動の強要
学会はもともと「会員個人の政党支援は自由」を明言していた(昭和39/42/45年)。
また、公式には、SOKA GAKKAI ANNUAL REPORT 2019の「今後の政治に対する基本的見解」には「個人個人の政党支援は自由」であることが掲載されている。少なくとも、2019年までは創価学会広報室は「支援の自由」を対外的に公言していた。
しかし、最近、選挙支援は会員の義務のように言われている。
特に、2021年7月の原田会長による「政党支援も宗教活動の一環」と宣言に続く、「従えない者は…反逆者」的発言によって、会員の公明党支援は会内で当然のように扱われるようになった。会長発言が、会員への政党支援強要の引き金になっていることは想像に難くない。もはや、支援は自由ではなく、会員の義務であるかのようになった。結果として、この会長発言は不適切だったと私は考える。また、このような不適切発言が、創価学会に分裂を生む一因でもあると考える。
また、現場では、学会が決めたことに疑問を持つことは許されず、組織の打ち出し通り、幹部の発言通りに精一杯活動するのが信心であるかのごとく言われている。
また、「愚痴は福運を消す」「役職は断ってはいけない」とされる。理由や根拠を聞いてもまともな返事は帰ってこない。これでは道理を重んじる仏法ではない。
喜んで従わないと良くないことが起こるかの雰囲気を醸し出す。まるで「罰」を恐れるように仕向けているかのようだ。「恐怖」を煽って、支配する。
おかしな幹部は役職という立場を利用し、更に様々な方法を使って、会員に活動を強要する。権威主義である。
そんな団体を会員はおかしいと思わないのだろうか。
『「おかしい」と思ったら、どんな人間に対しても、厳然と言っていくのである。』(2006.01.27)とは池田第三代会長の指導である。
都合の良い話だけを会員に吹聴し、幹部にとって都合の悪い先生の指導は封印してしまう。
そうやって出来上がった組織は、批判を許さない。上意下達の集合体である。何より心がない。
そして、それは単なる「支配と服従」に見える。
3)学会活動に名を借りた強制労働
近年、会員は信仰活動とはかけ離れた活動に貴重な時間を費やす。しかも職員と違い、会員には全てが無償奉仕である。
本来の仏法の信仰活動ではない。主要な活動は、政党支援と集金活動に過ぎない。
聖教新聞啓蒙、財務、党費、民音等々。幹部は次々と集金を行っていく。
会員は、「広宣流布のため」と吹き込まれ、学会、党、外郭団体を支えるために、金銭を支払う。
生活状況、家族の将来に配慮して指導する幹部はほとんどいない。
大勢の会員と幹部が、「苦しくともやるのが当然」と思っている。
否、苦しいからこそ、頑張れば、いつか功徳となって帰ってくると指導する。会員の多くもそう信じている。
課題を乗り越えるためには、御本尊に祈り、宿命転換に挑戦しようと励ます幹部はほとんどいない。
「財務は大善」「財務をすれば守られる」と、でたらめが横行する。
また、選挙となれば、約3か月以上、ほぼ支援一色になる。
全国的に「支援に切替」と言っているはずだ。
「支援は自由」の学会なのに、おかしな幹部が、いつの頃からか、勝手に言い出しただけなのに、いつの間にか支援が当たり前になっている。
第三代会長の指導に逆らっているのに、平気で突き進む。
今は、組織信仰、幹部信仰である。
御本尊を信じ、題目を唱え、課題に挑戦し、功徳を得るのではない。
幹部を信じ、組織や幹部の打出し通りに活動し、「支援すれば功徳がある」「献金(財務)すれば功徳がある」とされる。
今の学会は、仏法に基づいて、活動している訳ではない。
組織や幹部の指示を受けて、凄まじい数の会員が無償で活動する。何をやるにしても、これほど便利な集団はない。おかしな権力に利用されれば大変なことになる。
何も考えないで、言われたことを信じ、目標実現に邁進する。
中には、自主的に、また積極的に行動する人もいる。
一方、おかしいと感じながらも、立場や家族を守るため、納得していないのに活動させられる者もいる。
おかしな組織では、まともな批判に耐えられない故に、せめて表面上、数字だけでも目標を達成したかのように繕う。その目標は半端ではない。
そのために、理不尽な要求を強制される。逆らわない人間だけを集めて、号令をかける。煽る。そして、逆らわない会員は奴隷のように動き回る。
形式主義である。心がなくなってしまった。
あるべき活動や、本当の意味を教えられる人はもういない。
信じる対象を間違うと、宗教ではなくなる。
池田先生は何度も指導された。「つくべき人を間違えてはいけない」と(1989.9.24、2006.12.22、2008.1.29、法華経の智慧他)。
4)批判者を迫害
「財務(寄付)は大善」「(選挙)支援の功徳は大きい」等と歪んだ論調が横行し、金銭収奪と無償奉仕(F活動)に拍車がかかる。
また、財務(寄付)の収支は公開されず、金額も使途も全く不明である。
寄付する会員は生活困窮者も少なくないのに、職員給与は高額である。
平和に逆行する公明党支援に関しても、現場では強制である。「支援は自由のはず」と訴えようものなら現場では異端者となる。
そして、これらのおかしなことを止める幹部はもう誰もいない。
会員の中で、おかしな話をおかしいと言うものは少ない。おかしな幹部の言うことを聞かないと、組織の秩序を乱す者として、批判されるからだろうか。
更に、批判する者、従えない者は問題視され、陰口を叩かれるのは日常茶飯事である。場合によっては、活動停止、会館への立ち入り禁止、更には、役職を解任され、査問され、除名される。
ただ、まじめに信心したいだけなのに、おかしな政党支援活動を強要され、何に使われるか分からない金を要求される。
挙句の果てに、従わなければ反逆者…なんて、どうなっているのだろうか。
おかしな点を是正できない幹部の力量不足が問題なのに、正論を以て誤った軌道を修正しようとする者が迫害される。顛倒である。
おかしな幹部は、おかしな子分を量産する。人事と言う名の自己増殖である。官僚主義である。
このようなことを放置すると、まともな人はいなくなり、組織は悪化していく。
正常なフィードバックがかからないので、システムは暴走する。
やがて会員も不幸になり、組織は破壊される。「内部の敵」によって、学会は破壊される。
「敵は内部だよ」との戸田先生の発言の意味でもあろう。一人や数人のおかしな人間ではない。
放置すれば、無数の敵となり、全組織を蝕むようになる。これが本当の「内部の敵」である。
更に言えば、社会的影響も小さくないので、社会や世界が不安定になる。
学会の劣化が社会の不安定さと連動していると言えまいか。
以上、4事例・観点を挙げて創価学会の実態を記してみた。
私は次のように考える。
これでは、「洗脳」「詐欺」「支配と服従」「奴隷的労働(無償奉仕)」と言われても仕方がない。
宗教として大切な、自他共の幸福追求、人間性の開発、純粋性の維持はそこにはない。
あるのは、権威主義、官僚主義、形式主義の無残な姿である。
虚偽に基づく「洗脳(会員操作)」と権威や恐怖による「支配」が結びつけば、もはやカルトである。
これまで足早に見てきたように、現在の創価学会は本来の学会ではない。もはや、まるで別の教団である。
今、学会は分裂している(学会はおかしいと主張する改革派と、それを迫害する勢力で分裂している)。
異体同心ではない。献身・奉仕でもない。あるのは、支配と服従である。
学ばない人間、考えない人間、疑問を持たない人間の良心はどんどん失われていく。
公明党の得票数の減少、新聞発行部数の減少は、高齢化だけが原因ではない。
しかし、一方で、学会組織・幹部に従わない会員の増加が顕著になってきた。少しづつ気付く者も出てきている。
その背景は上に記した通りである。さすがにこの状況で気付かない方が異常である。
積極的な反抗はできないが、消極的な抵抗なら可能だと気付いた人達が徐々に増えてきている。
「おかしなことをおかしいと言う」ことはできなくても、「おかしなことには手を染めないでおこう」と考え、行動を始めたということだろう。
分断の下、お互いが「自分が正しい」と主張する以上、「どちらが本当の学会か」「どちらが出ていくべきか」、それはよく考えなければ分からない。
正邪を峻別し、邪が出ていくべきである。そうでなければ、「乗っ取り」である。
学び、考え、対話し、検証する。それ以外に正邪を区別する方法はない。
学ばなければ、考えなければ、「洗脳」から解けることはないだろう。
現在の創価学会はカルト教団と言われても仕方ないレベルに堕ちてしまった。
現在起きていることを考えると、旧・統一教会と手法と程度の差はあれ、同類と言えるだろう。少なからぬ人達はそう感じている。
私は、創価学会をカルト教団にしたいとは思わない。
私は、創価学会はカルト教団であってはならないと考える。
故に、変わる必要がある。変える必要がある、と考える。
創価学会をカルトにしないため(カルトから脱却するため)にはどうするべきだろうか?
(A) 迫害を覚悟してでも、今の組織を正常に戻す
(B) おかしな人間には出て行ってもらって、別の教団をつくってもらう
という姿勢で臨むべきだ。
今の現状を改善しない限り、やがて、創価学会が「カルト教団」と呼ばれてもしかたない時がやってくる。
小さなきっかけで、雪崩は起きる。その前に対応するのが望ましい。
自浄作用を働かせ正常化を図るか、外部の圧力で仕方なく矯正に応じるのか。
私は、前者で行くべきだと考える。後者では、内外の信頼を損ない、その損失の規模は大きいと考える。
先ず、指導的立場にいる幹部は、社会人として、仏法者として、最低限のコンプライアンスを学ぶべきだ。
会員は、「洗脳」から脱却すべきである。
そのためには、学ぶべきである。本音で語り合うべきである。自らが正邪を判断すべきである。
いずれにしても、創価学会がカルトと呼ばれないためには、また、正常な学会に戻すためには、先ずは心ある学会員が闘う以外にない。
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