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題名:日蓮仏法2.0様からのコメントに… 1/5~5/5
投稿日: 2017.08.24(木)

日蓮仏法2.0様からのコメントに… 1/5

1. 教義の比較

本投稿は、日蓮仏法2.0様の投稿に対するコメントです。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72590 (← このリンク先の掲示板は現在閉鎖されています)
しかし、掲示板を閲覧している方にも理解して頂きたいと思い、下記の三論の違いが分かるよう、細かいところは省いて特徴的な項目を表にしてみました。
日蓮仏法2.0様は既に熟知されており、必要ないと思いますが、掲示板の読者の方向けにもご興味があれば理解して欲しいと思い掲示します。

(1)従来の学会教学(2014年11月以前)
(2)日蓮仏法2.0説
(3)宮田学説

最初に確認です。
掲示板の閲覧者の方が、より詳細を理解するためには「凡夫即身成仏論」の書籍を読んで頂くにしても、日蓮仏法2.0様の意図する所として、別表の要点は、凡そ間違っていないでしょうか?
以下は、日蓮仏法2.0様の説を「日蓮仏法2.0」と記します。
特徴的な点だけ記します。
(3)に関して
■学会教学室・アドバイザーの宮田氏の学説(宮田学説)は、従来(2014年11月以前)の学会教学の根幹を否定しており、 これは同時に池田先生・戸田先生の過去の指導を否定するものでもあります。
後ろ盾の威光を頼みとした宮田氏の次のような主張が確認できます。
「(教義変更は)皆、いつかは変えなければと思ってきた。池田先生が亡くなった後に変えるのか、生きてるうちに変えるのか、そういう選択です(日本宗教学会の講演 2015年)」
「私は現在創価学会の本尊論構築に向けて研究を進めている(「優陀那日輝『本尊略弁』の構成と諸問題」から)」

(2)に関して
■日蓮仏法2.0様の主張は、文底仏法は堅持しながらも、「本仏とは凡夫」であり、「日蓮大聖人は久遠の本仏ではない」との主張から全てが始まっていると考えます。
一見すると「従来の日蓮本仏の学会教学」の上に、「凡夫こそ本仏」を強調した論であるとの印象を受けますが、実は「日蓮本仏」を否定した上での「凡夫本仏」だと考えます。

(1)に関して
■「従来の学会教学」とは、2014年の会則の教義条項の変更前の教学を意味しています。
厳密には2002年位以前の教学という方が良いのかもしれませんが、ここでは2014年11月以前とします。
日蓮大聖人を主師親の仏として、凡夫の成仏を目的とする本仏観と考えています。

——
(補足)
「凡夫本仏」に関する私の考えは、機会があれば改めて記したいと考えています(この考察のベースとなる資料は後日)。
ここでは、印象のみ記します。
私の周りでは、「凡夫即身成仏論」を読んだ感想を聞くと、素直に受け入れ難い印象を語っており、私の印象も同様です。
その抵抗感の源を考えているのですが、その一因は「本仏の定義」でもあるのではないかと考えています。
勿論、学会員のほとんどは、「凡夫即仏」「凡夫成仏」を支持しています。しかし、私は「日蓮本仏の否定」の上に「凡夫本仏」との主張には抵抗感があります。掲示板で違和感を持たれている方も同じではないでしょうか。
凡夫本仏論での「本仏」は「迹仏」に対する用法に由来しているのだと思いますが、この認識は正しいでしょうか?
(一例:凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり:諸法実相抄)
日蓮仏法2.0でいう「本仏」の定義は「『本仏』とは実在する人間に仏性が現成すること」(凡夫即身成仏論 99頁)とあります。
私(達)は、仏法における「師弟」の重要性を重視しています。自分自身を法を求める弟子とした場合の師匠です。
仏法、特に大乗仏教では、「自身の悟り(仏界)の成就」と「他者の救済の実践」を菩薩の修行に求めています。
特に菩薩の修行に於ける前者は、小乗教が悟りを得たとしても仏にはなれないと考えていたのに対し、自身の仏を開く(成仏する)教えです。

更に言うと、私を含め多くの学会員は、後者の「自身と他者」の関係に於いて、自分が救済者・師匠になるというよりも、お互いに同志として共に師の教えを求め実践すると言う実践形態を採っていると考えてもよいと思います。
この「師弟」の「師」を敷衍して、「主師親」の振舞が仏の定義でもあると思います。
多くの学会員が、「本仏」に関しては「主師親」や「仏の十号」で述べられているところの「仏」のイメージを有していると私は感じます。
戸田先生も「人々が仏を感ずる、指導者を欲する、それに応じて仏が出現する」と指導されています。そのような「本仏」のイメージを持っているのだと思います。
一方、それを自分に当てはめて「私が本仏だ」とは素直に宣言できず、抵抗感が生じているのではないでしょうか?
また、嫌いな人物を思い浮かべてみます。「その人物も本仏」だと思えるようになるには相当な人間革命を重ねて行かなければなりません(笑)。
確かに、善悪無記であり、また、極楽寺良寛や平左衛門尉が善知識なのですから、境涯が高くなればそう思えるのでしょう。
一般的な感覚では、「皆が仏なんだから・・・」とは思えても、「皆が本仏なんだから・・・」という感覚は、仮に正しいとは分かっていても、感情的には修行が必要だと思います。
「皆が仏…」と「皆が本仏…」の両者は似ているようですが、意味が違ってきます。
読んだ方が抵抗感を感じるのは、このようなことなのではないでしょうか?
たとえ違和感を感じている人を含めて、学会員の多くは「凡夫こそ本仏」との考えを否定するものはいないと思います。
しかし、「日蓮本仏を否定」して「凡夫本仏論こそが正しい」との主張には抵抗感がある、というのが正直なところではないかと考えています。

感覚的でファジーな意見ですみません。

他にもありますが、詳細は、今は省きます。

日蓮仏法2.0様からのコメントに… 2/5

2. 私の主張

以下は日蓮仏法2.0様のコメントです。
>私の提唱する人間主義の凡夫本仏論を、正宗教学の日蓮久遠本仏論と宮田さんの釈尊回帰の立場の間にある中道路線の一つのオプションとして提示されていないのが残念です。<
「凡夫本仏論をCleaSkyが取り上げていないことを残念」とのことだと思いますが、ここではその理由を記したいと思います。 話を進めるにあたって、最初に私の主張を述べさせて頂きます。

(1)日蓮本仏を支持
(2)池田先生の指導を根幹に学会は進むべき
(3)2014年11月以降の一連の教義改定は不要

(1)に関しては、先に述べたように、私は、日蓮仏法2.0様の「日蓮本仏を否定した前提での凡夫本仏」には抵抗感があります。
「本仏」に関しての定義が、日蓮仏法2.0様と私の間では違っているのが第一ですが、この他にも生命観、大聖人の出世の本懐、御振舞からの考察などに関しても、いつか私の意見を記させて頂きたいと考えています。
また、「大聖人・釈尊・凡夫の生命に関する考察」「本尊を図顕した仏(本仏)」「十号を備えた仏」という側面の考察も必要なのではないかとの考えです。

(2)に関しては、先に、①従来(2014年11月以前)の学会教学と②日蓮仏法2.0と③宮田学説を比較しました。 ここで、①従来の学会教学と②日蓮仏法2.0には違いを認めることができます。多くの点で違いますが、両者の違いの根源は「日蓮本仏の採否」だと考えています。
これに関しては、また改めて・・・。

一方の③宮田学説ですが、現在の学会教学は、少しずつこの説に修正されているように感じます。しかも、この修正の度合いは年々加速していると思われます。
この学会教学の修正は、宮田氏が学会教学室のアドバイザーであるとのことなので、当然かもしれません。
しかし、この修正内容は、池田先生がかつて指導されてきた内容とは異なっています。
もし仮に、「池田先生の指導と異なった教義」であっても、「合理性があれば修正を受け入れるべき」との考えもあるかもしれません。
それは、修正内容である宮田氏の学説が合理性を有しており、修正方法も「会員が悩んだり苦しんだりしない」形を十分検討する必要があるでしょう。
(私は修正する必要はないと思っていますが・・・・)

では、宮田氏は教義に関してどのように考えているのでしょうか?
以下は「SGI各国のHPの教義紹介の差異について」からの一部の引用です(http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/sgihp.html)。 学会から脱会して日蓮正宗に戻った人物に関しての記述ですが、現在の学会員に関しての記述もあります。

「私は宗教にとって教義はそれなりに重要であると考える一人であるが、日蓮正宗の教義がもはや何の学問的説得力もないことにまだ気づかないで、日蓮正宗の信仰に戻ったことを嬉々として語るそのメンタリティに、それはいまだ日蓮正宗の教義を批判的に総括できない創価学会の会員にも共有されているようだが、この人たちは私とは違う世界に生きているとしか思いようがない。」
ここで、宮田氏の論文のこの一部で気になった点を挙げると
①「宗教にとって教義はそれなりに重要」
この教義に対する姿勢は、学会教学に携わる人としては首をかしげざるを得ません。
教義の証明は難しいとしても、絶対の真理として定める宗教の教義は「極めて重要」だと私などは考えますが、「それなりに重要」とあります。
もしかすると「教義は重要」だが、「それにもまして重要な何かがある」と考えているのかも知れず、氏の真意を慎重に判断する必要があります。
また、「文は意を尽くさず」と言いますから、真意を様々な点から検証する必要がありそうです。
(「大聖人は自分で本仏と言っていないから本仏ではない」と主張する人であっても・・・・)

②「日蓮正宗の教義を批判的に総括できない学会員は私とは違う世界に生きている(主旨)」
残念です。未だ総括してない人も既に総括できた人も、同じ娑婆世界に住む住人かと思ってました。

確かに、誰でも、論文を自由に記述する自由はあるでしょう。
一方で、様々なものの中から何を信じるか、またそれを判断する自由も人は持っています。

個人的な印象を記しますと、宮田氏の教義は乱暴だと感じます。また教義の展開方法も誠実且つ真摯に行なわれていないのは、異なる意見を持つ者を「違う世界」に追いやるような姿勢です(追放は宮田氏ではなく、執行部の一部ですが)。その結果が、2014年の教義変更となったと私は考えます。
更に、それを諌めようとした元・教学部のメンバーを排除したことは問題だと考えます。

元々、私が「大聖人観と御本尊観」シリーズを書き始めた理由は2014年の会則の教義条項の変更に、「先生の成し遂げられてきた功績を破壊」する「何か」があるとの考えからです。その「何か」とは、先生を蔑ろにする勢力であり、会員を利用する幹部であり、それに対して戦わない心だと思います。
また、教義に於いても、「次第に改変されていく学会教学」と、「従来の先生の指導に基づいた以前の学会教学」を比較する場合、後者である池田先生・三代会長の教学を根本にすべきだとの考えです。
そのため、このシリーズでは「2014年以降の改変された教学」と「従来の学会教学」を優先して取り上げています。

「日蓮仏法2.0」と私の支持する「従来の学会教学」とは相違がありますが、それは「日蓮本仏の採否」という一点から起きているのだと個人的には考えています。日蓮仏法2.0様は「試論」として「凡夫本仏論」を上梓され、真実を求めて議論したいのだと感じています。
また著作(凡夫即身成仏論)を拝見しても、①池田先生の著作から論点を説き起こしたいという姿勢が感じられる、②池田先生との思い出を大事にされている、③欧米SGIの不条理な組織実態(「教団内部の権威主義と階層制度、寄付金・財務の不透明な管理、・・・・思想・言論・批判の自由の抑圧・・・」)に対し危惧していることが記されています。日本の創価学会、SGIに於いて、どのような教義であるべきか考えたいとのベクトル(方向性)は同じ方向かもしれないと考えています。

故に、このシリーズで、「日蓮仏法2.0」を、「現・学会教学」と同様の批判の対象としてはいません。
(未だ十分読み込めていないですし、私も議論のベースとなる考えを伝えてませんし)。
もし、より深く議論する場合でも、私の今回のシリーズの資料を議論の場(従来の学会教学と日蓮仏法2.0との議論)にしない方が良いと考えました。
たとえ、最終的に教義の合意を得られなくても、日蓮仏法2.0様の主張を先ずはもう少し理解したいと思います。

(日蓮仏法2.0を取り上げなくて)「残念」とのことですが、このシリーズではその方が良いのかなと考えてのことでした。 「大聖人観と御本尊観」シリーズの第五章では、私の議論のベース(生命観、大聖人の出世の本懐、御振舞からの考察など)を記そうと思っています。

日蓮仏法2.0様からのコメントに… 3/5

3. 試論-東洋哲学研究所での話、戸田先生の指導

「凡夫即身成仏論」の裏表紙に「筆者は一貫して、創価学会の協議を伝統的正宗教義から脱構築するための試論を展開してきた。本書はその続編…」とありました。
私は「試論」との用語に着目しています。ここでは、何年も前に聞いた話ですが、教義・教学に携わる場合に重要だと感じたことを記します。

これはある人から私が直接聞いた話です。話を聞いたのが何年も前のため、内容に正確でない部分があるだろう事を予めお断りしておきます。
その人は東洋哲学研究所で開催された何かの発表を聞きに行ったのだと思います。
研究所の発表では、ある説に関して一方の人は「こうである」と主張し、別の人は「いや、違う」とのことで白熱した(?)議論がやり取りされていたようです。
その際、所長?が「ここは、そういう場ではなく、あくまでお互いに試論ということでやり取りをしましょう」との発言があり、その人はとても印象に残ったとのことを語っていました。

それを聞いて「試論:試みの論」とは大変興味深く、感じたことを思い出します。
教学の最先端を研究する場合には、真摯に議論を重ねる必要があると同時に、大聖人の教義を「こうである」と軽々に断じることは慎まなければならないと感じたものでした。
その意味で、「試論」というのは価値のある方法だと考えます。

また、このことで思い出したのは、戸田先生の教学に対する姿勢です。
昔の書籍になりますが、「講座 教学研究3 特集=観心本尊抄」(昭和57年発行)に池田先生が戸田先生との教学の思い出、教学を学ぶ姿勢について「観心本尊抄に学ぶ」と題して筆を取られています。この中から二つだけ取り上げて、ここに記します。

====引用開始====
昭和二十五年の暮れのことと記憶している。先生と、湘南電車で二人だけの旅をした。車中、例によって御書を開いた。「観心本尊抄」であった。
先生は即座に、日寛上人の文段を開くように命じられた。
(中略:文段の内容が記されている)
その時、先生は車窓から広大な太平洋を眺めながら言われた。
「あの太平洋のような大境涯の信心で、この御抄を拝していかなければ、御本仏の御心に近づくことはできないよ。ただ才智で、御書がわかればよいとする人は、大なる過ちを犯してしまうのだ」と。
御書を拝する姿勢の根本的指導であった。私は稲妻にうたれるごとき衝撃を覚えた。
====引用終り====

====引用開始====
またある時、私は仲間と共に御書を拝しながら論議しあった。その光景を、先生はじっと見ておられた。その御文は「其の為体(ていたらく)本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・(中略)末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」(同二四七ページ)であった。
やがてこの御文の解釈が二派にわかれた。両者とも「こう拝するのが正しい」と言い合って譲らなかった。その時、先生は、「大聖人の御聖訓を凡夫の身である我々が、”こう拝する”と断定することは、絶対にあってはならない。”このように拝せる”とか、”このような拝し方がある”というならまだしも、未だ得ざるをこれ得たりと思う、増上慢になっては絶対にならない」とおっしゃった。この一点は、今もって私の求道への謙虚さの、ひとつの原点となっている。
更に続けて、「御書は、末法の御本仏の経典である。一行一行、一語一語をば、絶対なりと南無しながらの拝読でなければならない。いささかたりとも、我見でわかったように錯覚してはならない」と重ねて言われた。私達が身ぶるいするほどの厳しさが、そこには顕れていた。先生の講義は、まさしく剣豪の修行を思わせるものであり、あいまいな解釈は許されなかった。また信心なき解釈はすぐに見破られてしまった。
====引用終り====

大聖人の真蹟の研究、真偽未決の御書の裁定など研究を推進することは重要だと思います。また、その研究成果を踏まえた上での宗教団体の教学研究であるべきことは言うまでもありません。
宗教団体の教学研究は二代・三代の会長の指導のように真摯な姿勢の上に行なわれるべきであって、大聖人の真意に肉迫していくべきだと考えます。
私が「日蓮本仏」で良いと考える理由の一つも、このような指導を受けてのことかもしれません。

更に、創価学会という宗教団体の教義は、多方面からの検討の上に定められるべきものです。一部の人間が、気に入らない人間を排除して定めるものではありません。
教学研究は、特に初期段階にあっては「試論」というところから出発し、議論を重ねる方が価値的だと考えます。
一部の試論が検討を経ないで、いきなり教義に成り上がるのは問題だと考えます。
更に、元・教学部の方が慎重に対処するようにとの説得を試みたにも関わらず、また先生の意向を無視して、一学説を教義に制定するのは度を越しています。
慎重に議論を進めるべきだったと考えます。

勿論、学会組織を破壊しようとする内外の勢力から、学会員を護るためには、悠長なことではいけませんが…。
広宣部・教宣部の皆様、常日頃の活動・研鑽、お疲れ様です。

日蓮仏法2.0様からのコメントに… 4/5

4. 誰が教義を決めるのか

「創価学会の教義は誰が決めるべきか」を考えてみたいと思います。
池田先生がご健在なら、先生を中心に教学部が考えて、定めていけば良いはずです。
詳細は省きますが、そうなっていない現実が認められます。一例ですが、近年の教学試験教材の内容は、「法華経 方便品・寿量品講義」「法華経の智慧」とはかなり違います。学会教学は一定の意志に従って変質していると思います。

勿論、学会の教義は「日蓮仏法2.0様」やClearSkyが決めるものではありません。

一般的に考えて、「教学室・教学部が考えて」「執行部が認定し」「会則として公表する」ものでしょう。
宗教団体の教義は「オーソライズ(しかるべき権威によって制定・認定されること)」されたものであるべきです。

以下は日蓮仏法2.0様のコメントです。「凡夫本仏論をCleaSkyが取り上げていない」背景に関してのお考えだと思います。
>そうできない背景には、三代会長が正宗教義を信奉し、固辞したという立場を正当化し、その所詮「正統学会教学」から現在のSGが逸脱していると弾劾する構図が見えます。それは教学を離れた教団に関わる政治のレベルの問題となります。私としては、一往、問題のレベルを立て分けて考えるべきだと思っております。<

私の主張が「教学を離れた教団に関わる政治のレベルの問題」と「純粋な教義」の両方を含んでおり、「問題のレベルを立て分けて考えるべき」とのことだと理解しました。尚、この「政治」とは「学会内の権力構造とその運営」に関しての意味で用いられていると思います。

「教義」と「政治のレベルの問題」に関しての私の考えを記します。

(1)学会の教義が会内の政治力学によって歪められている。
(2)「教義を純粋に追求」する面が重要であることは言うまでもない。
(3)学会員の信仰活動、幸・不幸に直結する教義は、歪められた教義であってはならない。
(4)元・教学部のメンバーが排除された結果、歪められた教義である以上、「教義」と「政治のレベルの問題」を分離して議論しても意味はない。
(会員の信仰活動は歪められたままで変わらない。政治のレベルの問題を解決しない限り、教義は修正されない。)
(5)教義だけでなく、会員や世界の人々が幸せにならないシステムは改革し続けるべき。
教義や公明党の問題も気付きのための一助であり、一人ひとりが考えることが重要。
(※)学会の教義は「2014年11月以前」に一旦戻すべきである! ← 一案として

「教義を決めるのは誰か?」
それは本来、「現・教学部」と「執行部」であると先に記しました。そして、私は教義を一旦、元に戻すべきだと考えています。
先生は人を指導する際に慎重に行なうべき事を、「一度壊れた茶碗は元には戻らないんだよ」と指導されていたと嘗て聞いたことがあります。
今回の件は「人」ではなく、「教義」に関してですが、この指導のように、もう壊れた以上、「完全な『元の状態』に戻ることはない」でしょう。

それでも、一度、立ち止まって、本当にこんなやり方、こんな「それなりの教義」で良いのか、一人ひとりが考えるべきだと考えています。
その気付きのための資料になればとの思いで作成しています。
一度教義を元に戻した上で、もしも必要があると主張する意見があれば、正しいプロセスで、皆にも分かるように議論していくべきだと考えます。
この条件下なら、「政治のレベルの問題」を排した、純粋な「教義論争」となるのだと思います。
しかし、この条件なら、私は出てこなくても良いはずです。何故なら、今は排除された元・教学部の方々が議論するからです。私はその議論を見守ります。

もし、学会として教義の復元が実現できないなら、本当に採用すべき教義は一般会員が納得する形で決めるべきだと考えます。 教義に関して言えば、今ならまだ、正常な判断ができる多くの教学部員がいます。戸田先生、池田先生の教学を正しく学んだ人達です。
それらの人の集まりが、真の「創価学会・教学部」です。そのための登用試験を二代会長の頃からやってきたのですから。

日蓮仏法2.0様からのコメントに… 5/5

5. 最後に

未だ嘗て、一般信徒が宗教指導者の過ちを正したことはないかもしれません(宗教の歴史に詳しい人がいれば、正確なところをお教え下さい)。
ちょうど500年前の1517年にルターが改革を始めましたが、ルターは宗教者でした。在家信徒ではありませんでした。

2013年夏に先生が仰った「自身と創価学会の発迹顕本」とは何を意味するのでしょうか?
一人ひとりが考える必要があります。

いかなる団体も不断の努力なしには清浄な精神を保つことはできません。
もしも学会がおかしくなった時は、先ずは学会本部が率先して自浄能力を発揮し、次には幹部が努力して、過ちが修正されるべきです。
しかし、おかしな状態が放置され続けるなら、一般会員が立ち上がり、誤りの原因を是正すべきだと考えます。
そうなれば、それは宗教団体としてはある意味で恥ずべき歴史かもしれません。また、それでは仏教史に残ることになります。
それは聖職者に隷属する教団ではなく、21世紀に於ける民衆仏法の証明となるでしょう。

日蓮仏法2.0様は現在の学会をどのように受け止められているか分かりませんが、私は「池田先生の築き上げてこられた功績(教学体系も含む)を破壊する行為は容認できない」と考えています。
教義に関してより丁寧に伝えますと、「【もしも】池田先生の築き上げられた教学を修正する必要があるなら、正しい機関によって、慎重に検討し、公開されるべき」、「元・教学部を排除して行なうような教義改定は本当に正しいのか考える必要がある」との考えです。
何よりも先ず、池田先生の教学を否定するような学説が、合理性を持っているのかを考えることが重要です。先生の教学以外は教義に於ける合理性はないと私は考えています。
次に、「先生を否定してまで、新たな教学を作る必要があるのか」、「新教学が必要となる、時代の要請は認められるのか」を考える必要があります。
私はないと考えています。執行部はその必要性を「世界広布」だと言っているのだと思います。
もしそうだとすると『「世界広布」新時代のために、「先生を否定」することになっても止むを得ない』との主張になりますが、これを受け入れるか否か。会員一人ひとりが考えるべきだと思います。

(教義以外にも、私は「集団的自衛権と公明党支援」の資料を公開しています。現学会・公明党は平和創出に関する先生の功績を破壊していると考えています。)
昭和54年の頃から先生を蔑ろにしてきた歴史は現在も変わっていません。寧ろ広がり、浸潤していると考えます。
そして、「学会にいても幸せにならない」人達は拡大しています。

私の意図が正確に伝わるか否かは分かりませんが、私は単に「本仏論議」「教義論争」だけを行なっているつもりはありません。
教義に関しては【2014年11月の会則改変以前までに、学会教学は完成】されており、【2014年11月に会則の教義条項を修正する必要はなかった】と考えています。
宗門離脱後、御本尊問題、人間主義の仏法の確立等に関して、池田先生は着実に手を打たれていたと考えます。
特に1990年代の10年間はそのための期間であったように思います。今後数十年間、百年・二百年間のための基礎は磐石に構築されていたと思います。
そして、2014年当時も現在も、何も修正する必要はなかった筈です。

更に、先生のお考えは、学会教学、会則の教義条項に関して「教学部レポート」等にある通りだと思います。
しかし、これらの文書は「怪文書扱い」とされている組織もあるので、教義内容からもその正当性を証明する必要があります。
また、大聖人観と御本尊観を大きく変える教義変更のため、そのために各人がより深く考えられる下地が大事だと考えています。
教義や平和に関する意識はそれ自体が重要であり、組織が正常であるか否かのバロメータとも考えられます。

その意味で、私の目的は、日蓮仏法2.0様の目指す、ある意味「純粋な教義追求の試論」とは目的が違うと思います。
私は目新しい教義を提唱しているのではありません。2014年11月以前の教義を奉じています(厳密に言えば、2002年位以前かもしれません)。
三代会長の指導を基に、解説や新しい解釈を加えて、池田先生の教学(御本尊に関する指導、法華経の智慧など)を多くの人に理解してもらうための資料を作成しているのに過ぎません。
多くの人に「何かがおかしい」、そして「何がおかしいか」に気付いてもらうための資料提供です。例えば、教学試験の教材の意味するところ等を伝えているのも気付きの役に立てばとの考えからです。

日蓮仏法2.0様の期待に応えられていないため「残念」との印象でしょうが、私の目的(54年の総括等)なので仕方がありません。
それでも、資料作成等を通して、「日蓮本仏」「凡夫本仏」「久遠元初」等に関して考えることができました。現時点では、私は「法華経の智慧」の内容が最も合理的だと考えています。
「大聖人観と御本尊観」の残りの資料は今後公開したいと思います。その中にそれらを考える材料も載せる予定なので、ご興味があればご覧下さい。
そして、その後、「凡夫本仏論」「久遠元初」等に関して議論するべきだとお感じなられたら、その時は是非、宜しくお願いします。


当初、投稿した掲示板は現在閉鎖されていますが、投稿を転載してくれているサイトのリンクを紹介します。

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