創価学会の会員のための資料

■過去の投稿等から

題名:四月五日
投稿日: 2018/03/18(日)

2017年4月5日。
この日に池田先生と奥様が東京・小平市の創価学園と立川文化会館を訪問されました。

この日と二つの訪問された場所には大事な意味があると私は思います。
この掲示板のどなたかが既に投稿されているかもしれませんが、私自身の整理のためと思うところを記します。

昭和54年4月24日は、池田先生が第三代会長を辞任された日です。
しかし、この日に辞任を決意された訳ではありません。

「私が辞めれば、事態は収まるんだな」
「時の流れは逆らえません」

4月5日は、このやり取りが最高幹部との間でなされた日であり、山崎正友と宗門の僧侶への辞任の意向が伝えられた日です。
そして、この場所は、まさに立川文化会館でした。

4.24が「会長辞任の発表」の日とすれば、
4. 5は「会長辞任の決定」の日とも言えます。

2017年4月5日に立川文化会館を訪れ、勤行された先生と奥様の心中はいかばかりであったでしょうか。

一方、この日の立川文化会館訪問に先立ち、創価学園を訪問されています。
4月5日の学園訪問には、何か意味があると思い、調べてみました。
このことに関して、随筆:新・人間革命137「創価学園の第一回入学式」に記されていましたので、一部を引用します。

==== 引用開始 ====

それは、第三代会長に就任する直前の、一九六〇年(昭和三十五年)春、四月五日の火曜日のことであった。
私は、マッチ箱のような大田区小林町(当時)の自宅より、本部で用意してくださった車で、生き生きとした新緑の小平市(当時は小平町)の鷹の台をめざした。
妻と二人で微笑みを浮かべながら、嵐にも揺るがぬ、将来の創価学園の建設候補地を視察するためである。

ここには、有名な玉川上水の清き流れがある。
約三百五十年前、徳川四代将軍・家綱の時にできあがった水道であるようだ。
完成当時、水道としては、世界一の規模であり、幕末・明治期に来日した外国人たちも、すばらしいと賛嘆した。
せせらぎの音を聞き、未来の若き哲学者たちを生み出す、この学園アカデメイアを夢見、語りながら、私たち夫婦は、この地に向かって合掌した。
誰もいない、上水のほとりの雑木林で、妻の手作りの昼のおにぎりを広げた。二個は梅干し、二個は鰹節であった。
お茶の入った水筒があった。「あっ、忘れてきた! 湯呑み茶碗を」と二人で大笑いしながら、そのまま水筒の蓋を使って、代わる代わるに飲んだことも、楽しい思い出である。

(中略)

当時、会長就任への要請を、私は固辞し続けていた。
しかし、小泉隆理事長ら最高首脳から「このままでは、創価学会の未来はありません」との再三の懇請に、承諾せざるをえなくなっていた。
万年の道を厳然と開くために、何から手を打つか。私は、第一に創価学園の創立への行動を起こしたのである。
「牧口先生の悲願である、創価の学舎には、最高の教育環境を整えてもらいたい」とは、戸田先生の遺言であった。
その教育の理想郷を探すに当たって、私は具体的に、四つの条件を定めていた。
それは――

一、武蔵野の大地であること。
一、富士が見えること。
一、清流が流れていること。
一、都心から車で一時間ほどの距離であること。

眼前に洋々と開ける鷹の台の天地は、そのすべての希望に適っていた。
ここだ! ここに、創価学園を建てるのだ。
私は、約一万坪の敷地の購入を、この日、この時、決意したのである。
当時は、あまりにも貧しい学会であった。資産は、わずかしかなかった。学校の設立など、誰一人として、夢にも思わなかった。
しかし、私は妻に言った。
「これから、本を書いて書いて、書き続けるよ。その私の印税で、世界的な学園を、必ずつくってみせるからね」
妻は、微笑みながら頷いた。
一陣の春風が梢を鳴らし、野鳥が勢いよく空へ飛び立った。

==== 引用終了 ====

この日の学園への訪問で、昭和35年の当日をご夫妻で偲ばれたのでしょうか?
初代・二代会長の悲願・遺言である学園建設の決意を固めたことや、微笑ましい思い出を語り合われたのかもしれません。

会長就任前に「万年の道を厳然と開くため」と学園建設を決意された4月5日。
恩師・戸田先生の精神を忘れ、反逆者の策謀の虜となった幹部によって、実質的に会長辞任が決定した4月5日。
この二つの意味を持つ4月5日です。

学会創立と初代会長の逝去の「11.18」。
出獄と入獄の「7.3」。
そして、三代会長としての始まりと終りの意味を持つ、「4.5」のように感じます。
そして、ある意味、外面上には表れない日なのかもしれません。

ところで、寿量品には「無有生死 若退若出」とあります。「生も死もない」と生命の実相を説く教えです。
これは、「久遠の仏」であり、「元初」の姿なのでしょう。

「創価学園」「立川文化会館」の場所と「元初」には深い意味がありそうです。
また、先生の思いがあるのだと思います。

新聞記事によれば、立川文化会館の「元初の間」でご夫妻で勤行されたとありました。
昭和52年の開館のようですが、「元初の間」の命名は先生だと考えます。

また、随筆:新・人間革命「昭和54年5月3日」には夕暮れの立川で詠まれた詩に
 「元初の生命の一幅の絵画…」
とありました。

学園と立川、否、第二東京という地は「元初」に特に縁があるように感じます。
「元初」とは、一応は時間の起点の意もありますが、再応は、過去も未来も含めた三世常住、根源の意味でもあります。
「久遠」「永遠」であり、「悠久」です。悠久山の意でしょうか。

学園建設に永遠を込めること、また、会長辞任も久遠から見れば、永遠に戦い続ける生命に於いては一瞬の出来事なのでありましょう。

そして、いずれの一瞬もかけがえのない大事な一瞬であり、弟子に於いては「忘れてはならない一瞬」だと私は考えます。

今年も、日に日に膨らんでいく桜の蕾に春の息吹を感じる季節となりました。
あの日、2017年4月5日。道中の桜の花は見事だったでしょうか?

2017年4月5日の創価学園と立川文化会館の訪問を通して、改めて4月5日に込められた意味を学びました。
そして、また、今年も間もなく、4月5日を迎えます。


この記事を投稿した掲示板は現在閉鎖されており、閲覧することはできません。

主張 ー 過去の投稿等から
トップページ